10月2日からスタートしているNHKの朝ドラ、連続テレビ小説ブギウギ。皆さんご覧になっていますか?
物語は主人公である福来スズ子(ふくらいすずこ)の幼少期から遡り放送されていますが、スズ子にモデルがいたことはご存じでしたか?
今回は、ドラマ「ブギウギ」の主人公・福来スズ子のモデル、笠置シヅ子(かさぎしづこ)さんについて詳しく調査してみました!
一体何者なのか?どんな生涯を歩んだのか、結婚歴や子どもや孫の情報などもまとめました。
ブギウギを楽しむうえで知っておきたい情報ばかりです。それでは見ていきましょう!
笠置シヅ子の生い立ち
まずはブギウギのモデルとなった笠置シヅ子さんの簡単なプロフィールをご紹介します!
出典元:日本コロムビア
名前:笠置 シヅ子(かさぎ しづこ)
本名:亀井 静子(かめい しずこ)
生年月日:1914年(大正3年)8月25-1985年(昭和60年)3月30日
出生地:香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)
笠置さんが産まれた香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)は香川県の東に位置する小さな村です。
実の父は生後すぐに亡くなっています。
実の母親は実家へ里帰り中、母乳の出が悪く偶然近所へ同じく里帰り出産していた大阪府の女性にもらい乳をしていたそうです。
現代ではあまり聞かないもらい乳という文化。
粉ミルクなどもなかった当時「乳母」という職業もあったほどもらい乳は珍しいことじゃなかったんだよ
その後シヅ子はその大阪の女性に養女としてもらわれていき、大阪で育つこととなるのでした。
とはいえ、シヅ子は実の子として育てられていたようで自分の出生について知るのは18歳になってからでした。
笠置シヅ子はどんな人?気が強くて性格が悪かったって本当?
出典元:日本コロムビア
ドラマでも描かれているとおり、シヅ子は非常に明るく気が強く真面目で実直な性格でした。
戦時中、歌の披露は直立不動以外は禁止とされていたにも関わらず自分の歌唱スタイルを貫き警察に目をつけられた逸話も残っているほどです。
また、舞台の上では活発に縦横無尽に舞い踊る彼女ですが、どうやら潔癖で地味な一面もあったようで服部良一さんも次のように述べていました。
大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった」。
—服部良一『ぼくの音楽人生』
ブギウギでもスズ子のコテコテの関西弁が話題ですが、実際のシヅ子も大阪弁だったんですね!
現代でもプライベートと芸風が全然違う芸能人や芸人の方は多くいますが、笠置シヅ子も同じように舞台に上がると豹変するタイプのエンターテイナーでした。
美空ひばりとの確執
笠置シヅ子を調べると「美空ひばり」というワードが上位にあがってきます。
深堀していくとどうやら笠置シヅ子は美空ひばりとの不仲説が浮上していたようです。詳しく経緯を調べてみました。
美空ひばりが、シヅ子の「セコハン娘」のモノマネでブレーク
出典元:billboard-japan
戦後すでに歌謡界のトップスターに君臨していたシヅ子でしたが、当時11歳だった美空ひばりはシヅ子の曲「セコハン娘」で衝撃の大ブレークを果たします。
「セコハン」はsecond handの略。セコハン娘は中古の娘という少々大人な歌詞だったんだよね
ひばりは、リリースされたばかりのセコハン娘をシヅ子そっくりに歌い上げ、「ベビー笠置」「豆ブギ」などもてはやされました。
しかしこの時点ではシヅ子はひばりを可愛がり、一緒に写真を撮るなどの交流もしていたようです。
自分に憧れて自分を真似ている少女に対しこの頃はまだシヅ子も好意的だったようですね。
シヅ子より先にハワイデビューをしたひばり。歪が生じ始める
出典元:スポーツ報知
「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」などという批判的な記事を書かれながらも圧倒的な歌唱力で人気を博すひばり。
ついにシヅ子より先に海を越えハワイデビューを果たすこととなりました。
ひばりが先にハワイでシヅ子のモノマネを披露したことにより、本家シヅ子よりひばりのモノマネの方が現地で有名になってしまいます。
結果、マネされている側のシヅ子が逆に「ひばりのマネをしている人」という誤解を招いてしまう事態に。
この頃から2人の不仲説がささやかれるようになりました。
あくまで被害者側のシヅ子でしたが、逆にひばりをいじめている、嫌っているという風説が出始めてしまったのです。
ひばり、アメリカでシヅ子の曲歌唱を強行し不仲説の噂に拍車がかかる
出典元:livedoorニュース
そしてついに本格的にひばりとシヅ子の不仲説が現実味を帯びてくる事件が発生してしまいます。
事の発端はひばりサイドのシヅ子との約束不履行でした。
1950年6月、シヅ子と作曲家・服部良一はアメリカツアーを行うことが決定。
「服部・笠置ブギウギコンビ」として公演する予定でしたが、なんとその1か月前からのスケジュールでひばりもアメリカ行きが決定してしまいました。
当然ひばりサイドとしては持ちネタである笠置の曲も歌いたかったはずですが、それでは困ると直前にシヅ子はひばりに自分の曲をアメリカで歌わないよう禁止令をだしたのです。
しかしひばりサイドは「アメリカでは日本の法律はおよばない」とシヅ子との約束を破ってしまいます。
以上のような経緯からシヅ子とひばりの不仲説はますます濃厚なものとなったのでした。
渦中の2人の心境は?和解はしたの?
ハワイデビューや、アメリカツアーでの悶着はあくまで事務所間でのやりとり。
当の本人たちは「ただただ困った」とのちに語っています。
アメリカツアーの際ひばりはまだ13歳。
すべては周りの大人たちのなすがままだったというわけです。
不仲説が加速し始めひばりの事務所もそれではイメージが悪いと服部に謝罪。
その後世間への不仲説否定のためのアピールとして、NHKラジオでの共演が果たされました。
共演は和やかなムードで終え、無事不仲説は解消されることとなったのでした。
笠置シヅ子70年の歴史。偉業やエピソードも
【出生~太平洋戦争の勃発】
出典元:yahooニュース
1914年8月25日 | ・香川県にて誕生 |
1927年 | ・小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験→不合格 松竹楽劇部生徒養成所を受験→合格 ・三笠 静子の芸名で「日本八景踊り」で初舞台を踏む |
1933年 | ・「秋のおどり・女鳴神」に出演、一躍スターに |
1934年 | ・「恋のステップ」でレコードデビュー |
1935年 | ・笠置 シズ子へ改名 ※昭和天皇の末弟である澄宮崇仁親王が「三笠宮家」を創立したため |
1938年 | ・「松竹歌劇団」に参加し、服部良一と出会う。 |
1939年 | ・「弥次喜多大陸道中」で映画デビュー ・「贅沢は敵だ」をスローガンとしていた時代にも関わらず派手な化粧と身振りをしていた事を理由に劇場への出演を禁じられる。 |
1941年 | ・太平洋戦争勃発 ・松竹楽劇団の解散 |
ドラマ「ブギウギ」でも描写があったように、シヅ子は一度宝塚を受験するものの身長が足らず不合格になっています。
この際、両親には「自分の性に合わないからやめた」と伝え決して身長のせいとは明かしませんでした。
身長のせいと言うと親を悲しませると思ったのでしょうか、親思いな一面が垣間見えますね。
その後、無事に松竹へ入団し服部さんと出会いジャズ歌手として売り出し始めると同時に映画デビューも果たしました。
一方、戦局が進むにつれ激しい踊りとパフォーマンスが持ち味のシヅ子に対し「とうぶん遠慮して直立不動で歌え」「マイクより1メートル以内で歌え」などの強要もありました。
【戦時中~歌手廃業へ】
出典元:毎日新聞
1941年~戦時中 | ・「笠置シズ子とその楽団」を率いて地方巡業や工場慰問に活躍 |
1942年 | ・「アイレ可愛や」リリース |
1943年 | ・名古屋御園座で当時大学生の吉本穎右と出会う |
1945年 | ・太平洋戦争の終結 ・復興した日本劇場の最初のショーから出演を再開 ・東京大空襲でシヅ子の家が全焼したことを機に穎右と同棲を開始 |
1947年 | ・「踊る漫画祭り・浦島再び龍宮へ行く」の劇中歌「東京ブギウギ」が大ヒット。「ブギの女王」として世間に名を知らしめる ・穎右、享年23歳で死去。その数か月後、第一子の女の子を出産 |
1948年 | ・黒澤明監督の映画「醉いどれ天使」でキャバレーの歌手を演じ、役者としての頭角を現す |
1949年 | ・美空ひばりがシヅ子の楽曲「セコハン娘」のモノマネでブレーク ・のちにシヅ子の代表作となった映画「銀座カンカン娘」に出演 |
1950年 | ・「買物ブギー」がリリース ・ハワイやアメリカ本土で海外ツアーを行うもこの時期を境に人気は低迷、美空ひばりら若手歌手に人気を奪われる |
1953年 | ・テレビの本放送が開始される |
1954年 | ・娘、エイ子への脅迫状が届く→犯人はすぐ逮捕へ |
1957年 | ・自ら、歌手廃業を宣言 |
「戦中のブランクはアテの地獄でした」とのちに語っているシヅ子。
戦時中はジャズを禁止されていたため、服部はシヅ子のために「アイレ可愛や」という東南アジア調の曲を書き下ろします。
この一曲は持ち歌の多くを失ったシヅ子にとって希望の曲ともなりました。
その後最愛の相手、吉本穎右を亡くすもその数か月後には第一子愛娘を出産。
シヅ子はシングルマザーの歌謡スターとして歩みを進めることとなるのでした。
1954年にはなんと娘への身代金要求の脅迫文が届きますが犯人はすぐ逮捕。
その3年後に自ら歌手活動を退くことを宣言しています。
このとき公の理由では「娘の育児を優先させるため」としていましたが、のちに「太り始めたから」だったことを明かしています。
太り始めた=昔のように動けなくなっている、つまりパフォーマンスの質が落ちていると考えたシヅ子は自らの過去の栄光を汚すことを嫌い引退を決断したのでした。
その後、鼻歌すら歌わなかったというシヅ子。歌に対して非常にストイックだったんですね。
【役者へ転身~逝去】
出典元:youtube
1960年 | ・テレビドラマ「台風家族」出演 |
1963年 | ・バラエティ番組「マネましょう当てまショー」のレギュラー審査員に抜擢 |
1964年 | ・映画「愛と死をみつめて」出演 |
1966年 | ・歌謡番組「家族そろって歌合戦」のレギュラー審査員に抜擢 ・テレビドラマ「渥美清の泣いてたまるか」出演 |
1971年 | ・カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして出演 |
1980年 | ・体調を崩しがちに、乳がんの発症 |
1981年 | ・乳がんの手術、寛解 |
1983年 | ・がんが卵巣へ転移、入院生活へ |
1985年3月30日 | ・闘病の末、70歳で逝去 |
歌手として引退したシヅ子ですが、その後も役者として多くの作品に出演します。
このときシヅ子は、今後自分は娘を育てていかなければならない。
「スター笠置シヅ子」の高額な出演料では使ってもらえないからギャラを下げて欲しいと関係者に懇願したんだって!
テレビ放送が始まると映画だけではなくテレビドラマやCM、バラエティと多方面において活躍。お茶の間の人気者となったのでした。
そんなシヅ子でしたが晩年は癌に苦しめられ、5年の闘病生活を経て70歳でこの世を去りました。
笠置シヅ子は敗戦に沈む日本を元気づけたエンターテイナーだった
出典元:amazon
女性としての笠置シヅ子は、唯一愛した相手ともわずか4年で死別。
残された娘を女手一つで必死に育て上げたシングルマザーとして激動の昭和を生き抜きました。
しかしそんな波乱万丈なプライベートとは裏腹に、舞台にあがるとひときわ輝き人々を楽しませる生粋のエンターテイナーでもありました。
特に戦後は直立不動が原則だった躍動感に乏しい日本音楽に派手なパフォーマンスとリズミカルな楽曲を取り入れ、服部良一とともにj-popの礎を築き上げたのでした。
結婚歴はある?旦那や子ども、孫はいたの?
シヅ子は1943年に名古屋御園座で当時大学生の吉本穎右と出会い恋に落ち、一人娘のエイ子を出産していますが籍は入れておらず事実婚だったそうです。
事実婚の相手、吉本穎右
吉本穎右は、吉本興業の創業者「吉本せい」の次男です。
幼い頃に兄や姉を亡くしており、次男ながらも吉本興業の後継者として早稲田大学で帝王学を学んでいました。
吉本興業の跡取りとして育ててきた母・せいはシヅ子との結婚に大反対しておりなかなか籍を入れるに至らず。
そうこうしているうちに、穎右が持病の結核が悪化してしまい未婚のまま他界してしまったというわけです。
穎右は愛娘に会えないままこの世を去ることとなったわけですが、生前女の子だったら「エイ子」と名付けたいとの意向を汲み娘の名は「エイ子」となりました。
当初は結婚に大反対だった穎右の母せいも、エイ子の妊娠を機に態度が変わり優しくなったそう。
一人娘、エイ子
シヅ子が何よりも大切にしていた娘、亀井エイ子さんについては表舞台に立つことはなく一般人として生活しています。
一般人ということで職業など詳しい情報を見つけることはできませんでした。
また、エイ子さんの子ども、つまりシヅ子の孫についての情報も明かされていません。
あくまで一般人として過ごしてきたエイ子さんですが、2021年に一度だけメディア出演をしていました。
目元がシヅ子さんにそっくりですね。
もしかしたらブギウギの放送により笠置シヅ子が注目され、今後エイ子さんのメディア露出の機会も増えるかもしれませんね。
【ブギウギ】鈴子のモデル笠置シヅ子のまとめ
今回は連続テレビ小説ブギウギの福来スズ子のモデル笠置シヅ子さんについて調査してみました!
その結果
・笠置シヅ子は「ブギの女王」として一世を風靡。日本の音楽界に革命を起こし現在のj-popの礎を築いたエンターテイナー
・美空ひばりとの不仲説は、事務所間での話ですでに共演も果たし和解済み
・笠置シヅ子は未婚の母。吉本興業の御曹司・吉本穎右と大恋愛の末に死別
・娘エイ子さんは一般人で、シヅ子の孫については詳細は不明
ということが分かりました!
華やかな舞台の裏では愛する人を亡くし未婚の母として必死に娘さんを育てていたんですね。
そしてスターになっても歌への実直な姿勢を崩さず、早々に歌手を引退。その後も真面目にストイックに芸能活動を続けたシヅ子。
今後ブギウギでどう描かれていくか楽しみですね!
その経験を活かしながら、朝ドラ『ブギウギ』でも表現者として魅力ある芝居を視聴者に届けてほしいものですね。